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東京高等裁判所 昭和44年(ネ)2225号 判決

控訴人(被告)

宇賀田運輸株式会社

ほか一名

被控訴人(原告)

高田ハル

ほか一名

主文

本件控訴を棄却する。

控訴費用は控訴人らの負担とする。

事実

控訴代理人は「原判決を取消す。被控訴人らの請求を棄却する。訴訟費用は第一、二審とも被控訴人らの負担とする」との判決を求め、被控訴代理人は控訴棄却の判決を求めた。

当事者双方の事実上の主張、証拠の提出、援用、認否は、次に附加するほかは、原判決事実摘示の通りであるから、これを引用する(但し、原判決七枚目表一一行目に「急配」とあるのを「急勾配」と訂正する)。

〔証拠関係略〕

理由

控訴人佐々木の運転していた控訴会社保有の自動車(以下加害車という)が被控訴人ら主張の日時にその主張の場所で兼市と衝突したこと、同人が死亡したことは当事者間に争いがなく、〔証拠略〕を総合すると、次の事実が認められる。

控訴人佐々木は事故当日加害車である、木材一二トンを積載した大型貨物自動車を運転して事故現場附近まで時速約四〇キロメートルで北進してきたが、同所は左に急カーブした山の中腹の幅員約六・八メートルの道路で、見通がきかず、かつ、急勾配の下り坂になつている上、当時降雨中で路面がぬれ、すべり易い状態にあつたのであるから、あらかじめ徐行し、ハンドル操作を確実に行つて通行すべきであるのに、これを怠り、加害車の速度を時速約三〇キロメートルに減速しただけで進行したため、事故現場手前のカーブのところで加害車の前輪がスリツプし、そのため同控訴人はハンドルをとられ、加害車を道路右側ガードレールすれすれのところまで進行させてようやく左折させたが、その際左にハンドルを切り過ぎたため、今度は、加害車が道路左側の田に飛込みそうになり、あわててハンドルを右に切つた結果、加害車を大きく右に蛇行させて道路右側ガードレール脇に避譲していた兼市にこれを衝突させ、同日頭部外傷、内臓破裂等により同人を死に至らしめた。

右事実によれば、本件事故は控訴人佐々木の過失に起因することは明らかであり、控訴人らは、本件事故について兼市にも過失があつた旨主張するけれども、〔証拠略〕中控訴人らの主張に沿い、右認定に反する部分は、疋田の警察官に対する供述(甲第六号証の一二)と原審における供述とが喰違つており、さらに、右各供述と控訴人佐々木の警察官に対する供述とが喰違つていることや疋田の言うように兼市が道路の中央附近を加害車と同一方向に向つて歩いていたのであれば、控訴人佐々木が同人を発見したのは同人から五三メートル位手前であつたというのであるから、かかる場合、同控訴人は当然いつでも停車できるように加害車を徐行させるとともに、警音器を吹鳴するはずであり、同控訴人がかかる処置をとらないことは到底考えられないことであるのに、同控訴人がかかる処置をとつていないこと(疋田は原審で同控訴人が警音器を吹鳴したと述べているが、信用できない)、控訴人佐々木の言うように、兼市が道路を左から右へ横断しようとしていたのであれば、道路幅員は六・八メートルであり、兼市は、時速二五キロメートルの加害車が五三メートル手前まで接近したとき、道路中央センターライン附近にいたというのであるから(疋田は原審で、センターラインの右側にいたと述べている)、同控訴人が言う兼市が道路左側へ引返そうとした時点、すなわち、加害車が同人の二三メートル手前まで接近した時点には、同人がセンターライン附近にいたときから、時速約二五キロメートル(秒速約七メートル)の加害車が三〇メートル進行していることからいつて、約四秒経過していることが明らかであり、兼市が一秒間に〇・五メートル歩くとすれば、同人は道路右側ガードレール手前約一・四メートルの地点にいたことになり、加害車はそのとき道路左側一杯に進行していたというのであるから、兼市が加害車の接近に気付き、道路左側に引返そうとすることは到底考えられないことおよび前記各証拠と対比して、採用し難く、他に控訴人ら主張の事実を認めて前記認定をくつがえすに足る証拠はないから、控訴人らの右抗弁は採用することができない。従つて、控訴人らは各自兼市の死亡により同人および被控訴人らの被つた損害全部を賠償すべき義務を負うものというべきである。

次に、〔証拠略〕を総合すると、次の事実が認められ、控訴人ら主張の事実を認めて右認定をくつがえすに足る証拠はない。

兼市(大正七年一月二日生)はもと豆腐製造販売業を営み、不自由なく暮していたが、妻である被控訴人ハル(大正一一年四月一七日生)が昭和三七年五月脳卒中で倒れ、半身不随となり、その後遺症および悪性高血圧症のため病臥し、時に痙攣発作(意識や視力の消失、失禁を伴う)を起し、日常生活に人の手助を必要とする状態となり、兼市やその妹つねがその看護に当らなければならなくなり、人手不足となつたので、右家業を廃業した。当時兼市は一時生活に困り、同年六月一六日から昭和三九年一二月一日まで生活保護を受けていたが、心身ともに別段悪いところはなく、本件事故直前まで田一、八八三平方メートル(うち九四八平方メートルは昭和四三年五月売却)および畑一、三七四平方メートルを耕作するとともに、日雇に出て働き、年間三六万円を下らない収入を得ていた(右田の売却により田の耕作による収入は半減するものと考えられるが、その代りに日雇による収入は増加し、右程度の収入は将来も維持できたものと認められる)。被控訴人ハル病臥後はつねも病院の賄婦として働きに出(昭和四四年六月当時月給二万五、〇〇〇円位)、兼市の子である被控訴人要平(昭和二四年一一月二八日生)も中学校卒業後は工員として働いていたので(昭和四四年六月当時月給手取三万円位)、被控訴人ハルの昼間の看護には主として兼市が当り、同人は耕作に出かけても、午前一〇時ごろには必ず被控訴人ハルの様子を見るために帰宅していたが、兼市死亡後は親戚から月給一万五、〇〇〇円で人を雇い、被控訴人ハルの看護に当らせている(このことは兼市が生前被控訴人ハルの看護により一カ月一万五、〇〇〇円の収入を得るのと同一の経済上の利益を得ていたものともみることができる。)

右事実によれば、兼市は死亡当時五〇歳であり、その将来の就労可能年数は一三年はあると認められ、その年収三六万円から、その四割を同人の生活費および農業の必要経費とみて、これを差引くと、同人の年間のうべかりし利益は二一万六、〇〇〇円となるから、右期間中のその各年度分について年五分の割合による中間利息を控除すると、同人の死亡に基くうべかりし利益喪失による損害の合計額は二一二万一、三七三円となり、また、兼市は、前記のような状況のもとで二〇年以上の余命年数を残しながら、病気中の妻と若年の子とを残して死亡し、被控訴人らは日常の生活に人の手助を必要とする病気中の身または若年の身で頼りとする夫または父を失つたのであるから、兼市死亡に基く慰藉料の額は同人については一五〇万円、被控訴人ハルについては二〇〇万円、被控訴人要平については一〇〇万円が相当と認められる。

なお、〔証拠略〕によれば、被控訴人らは兼市の葬式費用、病院費用等として合計一四万四、八一六円を支出したが、被控訴人らの代理人である、兼市の妹つねは、その弁済として、控訴会社から昭和四三年八月二七日一〇万四、三一六円を、同月二九日四万五〇〇円を受領したことが認められ、被控訴人らが右金額以上の葬式費用等を支出したことを認めるに足る証拠はないから、被控訴人らのこの点に関する請求は理由がない。

ところが、相続により被控訴人ハルが兼市の前記損害賠償債権三六二万一、三七三円の三分の一である一二〇万七、一二四円を、被控訴人要平がその三分の二である二四一万四、二四八円をそれぞれ取得したことは明らかであるから、控訴人らが各自被控訴人ハルに対し右相続債権と前記慰藉料との合計額から受領済の責任保険金のうち一〇〇万円を控除した二二〇万七、一二四円の範囲内である二一一万一、六〇〇円、被控訴人要平に対し右相続債権と前記慰藉料との合計額から同じく二〇〇万円を控除した一四一万四、三四八円の範囲内である一二二万三、二〇〇円および右各金額に対する本件事故発生の日である昭和四三年八月二五日から右完済に至るまで法定の年五分の割合による損害金を支払うべき義務を負担していることは明白である。

よつて、被控訴人らの請求を認容した原判決は、理由は一部異なるけれども、結局相当であるから、本件控訴を棄却することとし、民事訴訟法第三八四条、第九五条、第八九条に従い、主文のように判決する。

(裁判官 近藤完爾 田嶋重徳 吉江清景)

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